楽しい思い出

「先生、明日以降の予定はあるの」


 夏祭りで賑わう、夕闇の神社。テンマの手の甲に畏まったようなキスを落としてから、金髪碧眼の青年――ヨハンがこんなことを訊いてきた。
「あまり決めてないな。君と家族に会いに日本に来たようなものだからな」
「それなら明日は観光案内を頼んでもいいかな」
「観光?」
「ええ。折角日本にいるんだし、先生お勧めの場所に寄ってみたいんだ」
 ね? とヨハンがにこりと微笑む。
 不法入国なのに暢気なものだとも思ったが、ヨハンを一度疑った手前“Nein”とも言えず、テンマは頷くしかない。
「……それはいいが、君が一緒にいると目立ちそうだ……」
「僕は構いませんよ。ヨコハマは外国人観光客も多いようだし」
 確かに横浜は外国人の姿も少なくない。だがそれを差し引いてもヨハンの整った容姿は一際目を引くに違いない。
「まあ、いいか。じゃあ明日の朝、君が宿泊しているホテルのフロントロビーで待ってるよ」
 二人は元来た参道に引き返す。灯籠に照らされた石畳の上を歩きながら、テンマは隣のヨハンに尋ねる。
「そうだ、ヨハン夕食は?」
「まだですが」
「苦手なものは」
「特には。日本食でも洋食でも先生のお好きなレストランでどうぞ」
「そうか。そう言われると結構難しいな」
 そもそも二人で外出するというのも、同居を始めてからこれが初めてだ。勢いで日本に来てしまったものの、今後の事を考えると先が思いやられる。テンマは困ったように頭を掻いた。


 翌日。
 指定した時間にロビーのソファで待っていると、すぐにヨハンは現れた。今まで追うばかりで待ち合わせなんてする間柄ではなかった分、妙な気分だ。
 二人でソファに座り、観光案内のパンフレットを見ながら今後の予定を話し合う。テンマも横浜には久しく来ていないので、正直ヨハンを案内できるほどの知識はない。以前と比べて再開発が進み、様変わりした街の様子に戸惑っているのが実情だ。


「うーん……どこから行こうかな。やっぱり中華街辺りがいいか」
 眉間に皺を寄せてパンフレットを眺める中、横からヨハンが口を出す。
「そういえば先生、ヨコハマにはタワーがあるでしょう。あれに登ってみたい。ずっと気になっていたんだ」
「タワー? マリンタワーか? 他にランドマークタワーもあるけど」
「なら両方で」
「……もしかして高い所が好きだったりしないか、君」
 馬鹿と煙は高い所へのぼる、という慣用句がちらりとテンマの頭に浮かぶ。勿論、口には出さないが。
「よくわかりましたね」
「そりゃまあ、ビルの給水タンクにメッセージを残したり、色々あったからな」


 思い返せば人づてではあるが、511キンダーハイムで階段の椅子から見下ろしていたり、ビルの屋上で子供たちに危険な遊びを教えていたりと枚挙に暇がない。
 511の生き残り、クリストフ・ジーヴァーニッヒの伝言で向かった先――双子が再会を果たした廃墟でも、ニナがいたのは最上階だった。


「昔から遠くを見渡すのが好きなんですよ。怪物から逃げるには都合がいいから」
「――…それは……妹とチェコスロバキアを放浪していた時のことか」


 ヨハンの言う怪物。それは、過去三匹のカエルで母子三人の前に現れ、母親に残酷な選択を迫った男、フランツ・ボナパルタのことだ。一年前の警察病院で見たあの夢とも幻ともつかない白昼夢は、過去に起きた出来事とみていいのだろう。
 幼い兄妹は怪物から逃れるため、里親を殺し痕跡を消しながら旅を続けていたのだ。数年後、東ドイツの国境でヴォルフ将軍に保護されるまで。


「そうだね。まあそれも記憶を思い出してから後でわかったことだけど。今はただ高い所が気に入ってるってだけ」
「……そうか。じゃあとにかく、ここから近いランドマークタワーから行ってみようか」


 予定としては、ランドマークタワーの展望台に登った後は中華街近辺で昼食。午後はマリンタワーと山下公園の散策といったコースでいいだろう。
 テンマはパンフレットを仕舞うとソファから腰を上げ、ヨハンと共にエントランスに向かった。



 横浜ランドマークタワーの展望フロアは、高さ273メートル、地上69階に位置し、大きなガラス窓から360度の大パノラマが一望できる人気のスポットだ。夏休みの時期ということもあって、多くの人が横浜や関東平野の景色を楽しんでいる。
 1993年開業の超高層ビルは長い間ドイツにいたテンマには馴染みがなく、新鮮に感じられた。よく晴れた今日は夏雲と青空のコントラストが目に眩しい。


 ……それにしても、昨日の神社でわかっていたことだが、周囲の観光客がヨハンの顔を見るなり俄かに色めき立つのも案の定と言うべきか。他の外国人観光客には目もくれず、この類稀な美貌の持ち主を振り返って見る者までいる。
 当のヨハンは好奇の視線にも慣れているようで、テンマに話しかけてくる時も素知らぬ顔だ。
「先生の実家はどの辺?」
「あ、ああ。ええと、あちらの方かな」
 テンマが指を差すと、ヨハンはその方角に目を向けた。白皙の横顔に浮かぶアルカイックスマイルも、心なしか普段より弾んでいる……ように思う。


「ヨハンは写真撮らないんだな」
 実際にはヨハンがカメラを構えている姿など想像もつかないが、眼下に広がる風景写真を撮っている他の観光客を見つつ、話を振ってみる。
「ああ、必要ないから」
「必要ない?」
「ええ。一度見たものはすべて記憶できるから。カメラは不要なんです」
「……なるほど」


 511キンダーハイムの実験プログラムや過去の体験から長い間記憶を失っていたヨハンだが、基本的にはその通りなのだろう。彼の並外れた能力を考えると疑問を挟む余地もないのだが、少し寂しい気もする。
 写真も含め、己の過去を抹消しようとしていた以前のヨハン。昔の写真を眺めて懐かしく思う、そんな時間は今の彼にも望めないのだろうか。


 中華街で昼食を済ませ、今度はマリンタワーに立ち寄る。全長106メートルの横浜マリンタワーはランドマークタワーより低い塔だ。とは言え、テンマの生まれる前に建設された横浜のシンボルは、テンマにとってはランドマークタワーより遥かに馴染みが深い。


 西日が差し始めた夕刻。
 マリンタワーからの眺望を満喫した後は、隣接している山下公園で夕涼みとする。山下公園は海に面した縦長の都市公園で、遊歩道には横浜港の景観を眺められるベンチがいくつも並んでいる。この時間も家族連れやカップル、ランナーなど多くの人で賑わっており、二人は木陰のベンチに腰を下ろした。


 ペットボトルの冷えた緑茶で疲れを癒したテンマは、遠い昔、まだ自分が高校生だった頃を思い出す。
「そういや、あの子とここに来たこともあったなあ。こうやってベンチに座って話したっけ」
「あの子……」
「そんな大したものじゃなくて、今思えば初々しいデートだったけど」
「ふーん」
 つい話が自分のことばかりになって悪いと思い、テンマは隣で興味なさそうにしている若者に話を振る。
「ヨハンは今日どうだった? 私も久しぶりだったから、ちゃんと案内できたか自信はないけど」
「ええ、楽しかったですよ。とてもね。昨日も言ったけれど、すべてがドイツやチェコとは違う。景色や料理、日本の人々……。あなたの国に触れることができてよかった」
「そうか。暑い中、歩き回った甲斐があったな」
 楽しい思い出か――テンマの胸をよぎるのは、一緒に旅をするようになってまだ間もない頃のディーターとのやり取りだ。


『テンマ。僕、全然ない。いい思い出なんかひとつもないんだ』
 一階がレストラン、二階から上が客室のガストホーフに宿泊した時のことだった。ベッドの隅に座ったディーターは小さな声で呟くと俯き、それきり黙り込んだ。テンマは横に腰を下ろし、ディーターの頭に手を置いて言葉をかける。
『なあ、ディーター。楽しい思い出がないのなら、これから作ればいい。明日はいい日だって、そう言っただろう? ほら、サッカーボールだってもうあるじゃないか』
 薄茶の髪をくしゃくしゃと掻き回してやると、幼い子供はうん、と首を縦に振り、はにかむように笑った。


 そうだ。生きてさえいれば、本人にその意志さえあれば、楽しい思い出を――幸せな思い出を作ることもできるはずだ。それはヨハンだって同じだろう。一年前のあの日、病室で母親の行動をテンマに問いかけ、母の愛情を強く求めていた彼なら。


 テンマは海上を飛ぶウミネコを眺めながら思いに耽る。すると当の人物から声をかけられた。
「先生は?」
「え?」
「楽しかった?」
 ヨハンに問われ、少し思案する。ヨハンの気持ちを気にかけていたが、それなら自分はどうか。
 今日の出来事を反芻しながら、テンマはゆっくりと話し出す。
「……うん、楽しかったよ。久しぶりの日本だったな。昔と比べて変わった所、変わらない所、どちらもあった。二つのタワーの眺めは絶景だったし、横浜のいろんな場所をヨハンと回れていい息抜きになったよ」
 そう、と相槌を打つヨハンに、テンマはさらに続ける。
「ああ、でもこの季節の日本も悪くないけど、春の桜とか秋の紅葉もまた格別だよ。日本の紅葉は木の葉が黄色だけじゃなくて朱く色づくのもあるんだ。春か秋なら今の時期より過ごしやすいしね。ヨハンにも見せたかったな」
「それはまた僕と来たいってこと?」
 テンマは思わず返事に窮し、目を逸らす。
「…………そう、なるかな」
 テンマの動揺を見透かすかのようにヨハンが薄く笑う。
「無理しなくてもいいですよ、先生。そう簡単に旅行できる関係じゃないってことくらい、僕にもわかってる」
「ヨハン……」
 冷たい水を浴びせられたように現実に戻され、テンマはやるせない思いに包まれる。ヨハンの言う通り、本来なら二人は観光旅行をしている立場じゃない。自分たちは取引を結んでいるに過ぎず、取り巻く状況は決して楽観できるものではない。だが、日本の美しい四季の風景をヨハンにも見てほしいと――二人で見たいと願ったのも確かなのだ。


 生温い潮風が頬を撫で、鼻腔を掠めていく。耳に届くのは、公園の雑踏に重なるような蝉とウミネコの鳴き声、そして岸壁に打ち寄せる波の音。港を行き交う船の往来を暫く眺めていると、ヨハンが口を開いた。
「先生、明日のことだけど。あなたと二人で帰りたいのは山々だけど、先に帰るよ」
「え、飛行機で一緒に帰るんじゃないのか」
「偽造パスポートだからね。万が一あなたに迷惑がかかるとも限らないし」
「そうか」
 先程のやり取りもそうだが、これが二人の現状なのだと認めざるを得ない。テンマは小さくため息を吐く。
「先生はどうするの。まだ会っていない家族がいるんでしょ?」
「……よく知っているな」
 ヨハンの指摘は正しく、次兄には昨日会ったものの、未だ両親と長兄には顔を見せていない。ヨハンも日本を訪れてからはテンマの少年時代を辿っていたと神社で言っていたし、それくらいはお見通しということか。
「まあね。この機会に顔でも見せたらいいかと思って」
「…………」
「僕がこんなことを言うなんておかしい?」
「いや……なんていうか、君にまさか家族のことを言われるなんて思いもしなかったから」
 よりにもよって、ヨハンに家族に会うよう促されるとは。テンマ自身、双子の母親に接触する等、彼ら親子にかなり踏み込んでいる自覚はあるが、逆の立場になるとは思ってもみなかった。


 海を見つめるヨハンはどこか愁いを帯びた横顔だ。湿った風が柔らかな金の髪を揺らしている。
「他人のことならいくらでも客観視できるのに、自分のこととなると何も見えなくなる……人間って面倒だね」
「そうだな……」
 テンマの口から肯定の言葉が自然と零れていく。確かに双方とも相手のことならどうとでも言えるのに、こと自分に関しては家族との距離感が掴めないでいる。二人とも、なんて不器用なのだろう。


 振り返れば互いに深く関わり合う仲になったものだと、テンマは身に沁みて思う。因縁めいた殺し殺される関係から、こんな会話をできるようになったのなら、彼と取引をしたのも間違いではなかったと信じたい。


「じゃあ、家族に会ってくるよ。長く顔を出していないから歓迎されないかもしれないが」
 テンマが小さく笑って言うと、ヨハンはテンマの目を見て頷いた。
「また一人待つのは寂しいけれど……あのアパートであなたを待っているよ。だから早く帰ってきて」
「ああ」


 それから二人で早めの夕食を済ませた後、テンマはヨハンの宿泊するホテル前で彼と別れ、再び実家を訪ねた。独立して家を離れている長兄には会えなかったが、両親、それに帰省中の次兄はこちらが恥ずかしくなるほど、いたく喜んでくれた。
 久々に見る家族の笑顔に、もっと早く帰ってくればよかったと申し訳なく思う。そして、今頃一人でいるはずのヨハンはどうしているのだろうと心の片隅で彼を想った。



 翌日。ヨハンの搭乗する便とは時間をずらしてドイツに帰国する。日本に来る時は不安と焦燥で胸が張り裂けそうだったが、今は吹っ切れたように飛行機のシートに身を預けている。機内から見える景色を眺めながら、「帰国」する国がもう日本ではないことにテンマは感慨を抱いた。


 自宅に着いた頃にはもう夕方だった。緯度の高いドイツでは、外はまだ充分明るいが。
「ただいま」
「おかえりなさい、先生」
 エプロン姿のヨハンが普段と変わらない様子でテンマを出迎える。テンマは二つの紙袋をヨハンに差し出した。
「はい、お土産」
「これは……?」
 受け取った紙袋を不思議そうに見るヨハンに、テンマが指を差しながら説明する。
「こっちは月餅。中華街で買った菓子だよ。君の口に合わないことも考えて、そっちの袋はチョコレートケーキ」
「ありがとう、先生。でもわざわざいいのに」
「ああ、ドイツは土産の習慣がないんだったな。でもこうやって誰かに物を贈るのが私は好きなんだよ。味が合わなかったら無理に食べなくていいから」
 軽い口調でそう伝えると、ヨハンは納得したように頷いた。
「いえ、では夕食の後で頂きます」


 夕食後、二人は早速月餅を食べてみる。購入したのは小振りのサイズのものだ。テンマが見守る中、ヨハンは表情を変えずに口に運んでいる。味は大丈夫なようだ。テンマも月餅を頬張れば、甘さ控えめの皮と餡が口の中に広がった。
 日本人のテンマとチェコ出身のヨハンが甘い中華菓子で一息つく。何だかよくわからない組み合わせではあるが、こんなゆったりした時間があっても悪くない。



 日本を離れ、再び二人に平穏な日々が訪れる。
 独りになって寂しかったと日本で本音を見せたヨハンに配慮し、テンマはあれから病院勤務に専念していた。
 まだ8月とはいえ、早くも秋の気配が漂ってきた休日のある日。朝食後にコーヒーを飲んでいたテンマにヨハンが切り出した。


「先生、次のMSFはいつになるの」
「いや、行かないよ。だって君が……」
「いいよ」
「え」
 テンマはカップを置いてヨハンを見返す。青い眼差しは凪いだ海のように落ち着いている。
「先生が行きたいと思うならね。元々そういう契約なのだし、その間僕はこの家で待ってる」
「でもそれじゃ、君がつらいだろう?」
「そうだね。きっとまた寂しくなると思う。だから……」
 やや目を伏せていたヨハンは顔を上げ、テンマを正面から見据える。
「その代わり、家を発つ時にハグをして。名前を呼んで抱きしめてほしい」
「……ヨハン」


 ヨハンの表情にテンマをからかう素振りはない。
 挨拶としてのハグは欧米でよく見られる習慣ではあるが、ドイツでは男同士の場合、握手のほうが圧倒的に多い。例外もあるが、基本的には挨拶で抱き合うことはあまりない。
 にも関わらず、ヨハンは幾度となくキスやハグなどスキンシップを求めてくる。それは何よりも親の愛情に飢えているサインと考えていいのだろう。なぜその対象が自分なのか、わからなくもないのが複雑なところではある。


 テンマが押し黙っていると、ヨハンは口角を小さく歪ませた。
「嫌?」
「……いいよ。わかった。今度からそうする」
「本当にいいの」
「ああ」
 正直、成人男性同士のやり取りとしては気恥ずかしいものがあるのは否めない。だが、この青年にはこういった過程が必要なのだと思う。これまでの人生で得られなかったものや思い残したことを思う存分にやり直す、そんな過程が。
 孤独や寂しさ、見捨てられることへの恐怖心。彼の心が少しでも満たされるのなら何でもしてやりたいと、テンマは心から思った。



「時間か。じゃあそろそろ行くよ」
 これから約一か月半ほど、MSFの海外派遣でテンマはドイツを離れる。リビングの掛け時計を見ながらテンマがソファから立ち上がると、ヨハンも腰を上げた。
「先生」
 ヨハンの腕がテンマの背中に回り、正面から軽く抱きしめられる形になる。テンマは一瞬身を強張らせるが、そう言えば約束だったな、と苦笑いを浮かべ、ヨハンの背中をぽんぽんと叩く。数秒ほどで二人は身体を離した。
「一か月半の間だから。留守番よろしくな、ヨハン」
「はい。先生も気をつけて」
「ああ、ヨハンも」
 ヨハンの表情は穏やかだ。胸中を察することは流石にできないが、玄関のドアを閉めるまで、彼の様子が変わることはなかった。



 10月も半ばに差しかかった頃。派遣の任期を終えたテンマは事前にヨハンに連絡を済ませ、帰宅した。秋のドイツはすっかり寒くなっているだろうとの予測が裏切られ、今日は季節外れの暑さだ。
 ドイツではエレベーターのない古い建物が多く、日本では四階建てに相当するこのアパートも、部屋に行くには階段しか手段がない。テンマはシャツの袖を捲った腕で額の汗を拭いながら、三階の部屋まで階段を上がっていく。部屋の鍵を開け、床に鞄を置くと、ヨハンが部屋の奥から出迎える。
「あ、ただいま」
 ヨハンの名を呼ぼうとしたのも束の間、細身の体躯が有無を言わせず抱きついてきた。
「おいおい、汗臭いだろうからやめたほうが――」
「おかえりなさい、先生」
 慌てるテンマの制止も聞かず、ヨハンは首に手を回し、ぎゅっと身を寄せてくる。ハグは家を発つ時だけという約束ではなかったかとテンマは内心思ったが、諦めて背中に腕を回した。


 相変わらずハグには慣れない。が、前回より密着している分、ヨハンの体温がそう高くないことにテンマは気づく。手に触れるシャツの感触がさらさらと涼しい。普通、欧米人の平均体温は日本人より高いのだが、ヨハンはそうではないらしい。今日は秋にしては暑く、外から帰ってきた身にはその低さがちょうど心地良かった。


「先生?」
 訝しむヨハンの声が思いのほか近く、テンマははっとして身体を離す。涼しさに甘えて、うっかり抱擁が長くなってしまったようだ。
「あ、えっと、ごめん。長すぎたかな」
「僕はもっと長くても全然構わないけどね」
 目を細めてさらりと言うヨハンに、テンマはかあっと頬が熱くなる。


 ――いやいや、これはあくまで親愛の情としてのハグであって、特別意味がある訳じゃない。年甲斐もなく何を意識しているんだ。


「夕食はこれから作るから、先生はゆっくりしていて」
「あ、ああ。じゃあ先にシャワーを浴びてくるよ」


 ……何だか外にいた時よりも、ますます暑くなった気がする。
 キッチンに入っていくヨハンを見送ってから、テンマはマットの上でルームシューズに履き替える。鞄を一旦自室に置いた後、籠った熱を冷ますために浴室へと向かった。

<了>

あとがき


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