螺旋の海 第5話

 ――ルーエンハイム。
 フランツ・ボナパルタはチェコスロバキアから西ドイツに亡命した後、クラウス・ポッペとしてバイエルン州の小さな街でひっそりと暮らしていた。
 ペトル・チャペックから訊き出したボナパルタの息子、リプスキーの証言と、亡命者リスト、ボナパルタがヘルムート・フォス名義で最後に描いた絵本『安らぎの家』から、ヨハンはついにボナパルタの居場所を突き止めたのだった。


「ヨハン、もう一度確認するが……殺してもいいんだな? Dr.テンマとニナ・フォルトナー以外は、ドクターの周りの人間であっても」
 ミュンヘン市内のホテルで、ヨハンとロベルトは最後となる会合を開いていた。ソファで向かい合うヨハンにロベルトが静かに尋ねる。彼らにだけは絶対に手を出すなと必死に訴えていたテンマの声がヨハンの耳をかすめていく。
「……いいよ。抵抗する者は残らずね。……もうすべては終わるのだから」
「そうか。……わかった」
 視線を落として沈黙を見せるロベルトに、ヨハンはふとあることを思い出した。
「ところでロベルト、あのグリマーという男、年代から考えて君と同期だったかもしれないな」
「同期……511キンダーハイムのか?」
「ああ。もしそうだったら君はどうする?」
 惨劇の宴を目前に控え、ヨハンはロベルトの忠誠心を試してみたくなったのかもしれない。ロベルトは手にした愛用の銃を見つめながら呟いた。
「……今更どうもしないな。俺は命令を遂行するだけだ。あんたの手足だからな、俺は」
「そう」
 ロベルトはその言葉通り、計画の一部始終を話しても口をはさむことは最後までなかった。



 ヨハンの前に散らばる、いくつもの双子の絵。
 思いも寄らない光景にヨハンはその目を疑った。


 絶えず降りしきる雨の中、既に殺し合いが行われているであろう眼下の街をヨハンは一瞥すると、街の高台にある古びた家屋に足を踏み入れた。
 ここはボナパルタがある時期まで使用していた空き家だ。部屋には描きかけのキャンバスや使いかけの絵の具と筆、三脚イーゼルがそのまま残され、この部屋がアトリエとして使われていたことを如実に示していた。


 中でも目についたのが、無造作な状態で床に散乱している何枚ものキャンバス絵だった。描かれているのは、すべて男女の双子、ヨハンとアンナの絵だ。どの絵も未完成のまま、10歳頃の二人を描いており、表情は静かに微笑んでいるものばかりだ。これらの絵からは冷酷さが微塵も感じられない。
 ボナパルタにとって双子は実験の成果でしかないはずなのに、なぜ?
 むしろ伝わってくるのは、切ないまでの慈しみと哀しみ、そして後悔――。


 絵と同調するようにヨハンの胸に過去の記憶が去来する。
 まさか、怪物がリーベルトの家に現れたあの夜、怪物は双子を連れ去りに来たわけではなかったということなのか。あの時、怪物はもう怪物ではなかった……?
 受け入れがたい事実に、ヨハンは息を呑む。


 そして唐突に脳裏に流れてくる、ある記憶。頭の一番奥にある、怪物が三匹のカエルに現れた時の記憶だ。ヨハンの心臓が早鐘を打ち始める。
 ……怪物は「これは実験だ」と言い放ち、どちらの子を引き渡すか母に選択を迫った。母は「こっち」と呟き、一度ヨハンの手を引いてから思い直したように、「いいえ、こっち」と妹の手を離した……。
 ずっと同じ存在だと思っていた双子が初めて区別された瞬間だった。


 これが、ヨハンが最も思い出したくなかった記憶の正体だ。この事実を認めたくなくて、妹と自分は一心同体なのだと思い込もうとしていたのだ。そう思っていれば、何も考えずに済むから……。


 雨音が耳に響く。どれほどの時間、立ち尽くしていたのだろうか。ヨハンは絵から顔を背けるように、空き家を出る。
 おそらくテンマはボナパルタと合流し、この殺戮の指揮を執るロベルトの許に向かうだろう。目指すはホテル・ベルクバッハだ。
 ヨハンは冷たい雨に身を晒し、ゆっくりと歩き始める。頬や髪を伝う雫が、涙のように滴り落ちていく。


 高台を降りると、既にルーエンハイムには死が溢れ、街の至る所に死体が転がっていた。この地獄絵図は、テンマがヨハンを生き返らせた結果の産物だ。少なくともテンマはそう考えるだろう。ヨハンの罪を自らの罪として捉えるテンマの目には、堪えがたい光景として映るはずだ。
 これまでヨハンに対しては一度も引き金を引くことができなかったテンマだが、もう猶予はない。彼は必ずヨハンを撃つ。


 だが、ヨハンに銃口を向けるということは彼の信念に反することでもある。命の平等を見出す発端となったヨハンをその手で殺すということは、テンマを支える根幹そのものを失うに等しい。ヨハンを撃たなければならない矛盾と二律背反をテンマが受け入れるその時こそ、二人が終わりの風景を共有する時となる。


 さあ、向かおう、テンマの許へ。
 彼ならば、すべてを終わりにしてくれるだろう。この孤独から解放してくれるだろう。ヨハンはずっと、自分を殺してくれる誰かを待っていたのだから。


 ――その代わり、覚えていて。どうか僕のことを忘れないで。



 不意に、意識に気づいた。
 身体は動かない。ただその意識だけが、夢の中を漂うように朧げに、だが確実に認識できた。誰もいない、一筋の光もない虚無の中、ヨハンはいた。


 この期に及んでなお、ヨハンは生きていた。ヨハンに突きつける、確固とした事実。この状況下でもわかるのは、少なくともテンマが撃ったのではないということと、またしてもテンマに命を救われたということだった。
 結局、終わりの風景を以ってしても、そして子供に銃口を向けて無理やり選択を迫っても、テンマの信念を揺るがすことなど不可能だったのだ。


 一体何度、終わりと目覚めを味わっただろうか。孤独の果てに終わりの世界を見ては、死ぬこともできずに現実世界に呼び覚まされる。終着点もなく巡り続ける螺旋のように、ただそれを繰り返すだけ。
 だが、もう次はないだろう。
 ヨハンが目覚めることはおそらく永遠にない。何もしないという選択しか、もうヨハンには残されていなかった。



 窓の外では薄暗く雪が舞う中、ヨハンは今日も病室で眠り続ける。
 気づけば、ベッドのそばに人の気配を感じた。……テンマだった。
「ヨハン、なぜ目を覚まさない? オペは成功だった。もうとっくに意識を取り戻してもいいはずなんだ」
 そう言うとしばらくの間テンマは無言で立っていたが、再び口を開く。
「……君自身が、生きることを拒否しているということなのか? それほどまでに君の絶望は深いのか」
 ヨハンは眠ったまま、答えない。テンマは深く息を吐くと病室を出ていった。それでもヨハンは眠り続ける。夢と現実の境が曖昧なまま、たゆたう海に身体を委ねていく。



 それからテンマは何度も病室にやって来てはヨハンに話しかけるようになった。機械的に接する他の医師や看護師とは違って、彼だけが諦めずに幾度も声をかけ続けた。
 話の内容は至って他愛のないものだ。挨拶から始まって、テンマやアンナの近況を語ったり、あるいは、今日は雪が降って寒いとか、風が強いとか、だいぶ暖かくなったとか、こんな花が咲いていたとか――そんなことを取り留めもなく話していく。空調の効いた病室で眠るヨハンにとっては、彼が訪れる時だけが季節の移り変わりを感じ取れる唯一の手段だった。


 なぜテンマが、何度も病室に通い、ヨハンに語りかけてくるのかはわからない。一貫して彼の声はひどく優しかった。あのアイスラー記念病院のICUで、ヨハンに身の上話を聴かせてくれた時のように。


 テンマが病室に通ううち、ひとつわかったことがある。彼ははっきりとは口にしないが、テンマの冤罪がついに晴れたということだ。それは、長く続いた二人の関係に終止符が打たれたことを意味していた。
 もうテンマはヨハンのものではなかった。……いや、端からヨハンのものになどなり得る訳がなかったのだ。手を伸ばしても決して届くことのない清廉な魂、それがテンマなのだから。



「窓を開けようか。最近はかなり暖かくなってきたからね」
 今日もテンマは病室を訪れていた。窓際に移動したテンマは、カーテンと窓を静かな動作で開けていく。開いた窓から射し込んでくる柔らかな陽光と緑の匂いのする風は、ヨハンにも春の陽気を感じさせた。
「ああ、だいぶ髪も伸びたな。これなら傷痕ももう目立たない」
 そう言ってテンマはヨハンの前髪を軽くかき上げ、額を指でそっと撫でる。手術と診療以外で彼から触れてきたのはこれが初めてかもしれなかった。



 照りつける陽射しを受け、部屋に帯びる影も一段と濃くなった、ある夏の日。
「今日は花を持って来たんだ。この部屋は殺風景だからね。花瓶も水やりもいらない、かご入りの枯れない花だよ。これなら感染の心配もないし飾っても大丈夫だろう。…っと、そういえば置き場所がないな」
 普通、大抵の病室にはベッドサイドにキャビネットが置いてあるが、この病室には何もなかったようだ。前代未聞、大量殺人の被疑者ということで厳しい監視態勢が取られているためだろう。テンマは壁の隅に立て掛けてあった折りたたみのパイプ椅子を持ってきて、その上に花を置いた。
「これじゃちょっと締まらないかな……。まあ、仕方ないか」
 テンマは椅子に座ると、いつものように近況を話し始めた。



 夏が過ぎて日が短くなり、木々の紅葉が目立ち始めた頃のことだ。眠り続けるヨハンの病室に数人の男たちが訪れた。テンマでもなく、担当医でも看護師でもない。一種異様な空気をヨハンも感じ取る。
「これが噂の眠れる怪物……か。院長、やはり “J” はずっとこのまま……?」
「断言はできませんが……術後からかなり経過していますし、目覚める可能性は低いかと」
「なるほど……。まあ、それならそれで好都合とも言えるか」
「しかし、美しい……。まるで人形みたいだ。これが人の手によって創り出された人間なのか」
「人間? こんなのは人間とは呼べないだろう。人の形をしたモンスターだよ。外見に惑わされていると足をすくわれるぞ」
「いや、まさに。旧東側が生み出した負の遺産であることを念頭に置いて、我々も心してかかるべきでしょう」
 男たちはヨハンを “J” と呼び、会話には、実験、遺伝子操作、細胞培養、解析、研究、技術、利用、サンプル、コントロール、クローニングといった単語がいくつも飛び交った。どうやら警察病院の院長とどこかの科学者たちらしい。彼らにとってヨハンが絶好の研究対象であるのは明白だった。だが、ヨハンにとってはもはやどうでもいいことであり、夢から覚める理由には到底なり得なかった。


 興奮した様子の男たちが会話に興じてしばらく経った頃、突然ドアをノックする音が病室に響いた。院長が入口に向かい、ドアを開ける。
「何だ、Dr.テンマか? 今は立て込んでて――」
「いや院長、今日はこれで失礼させていただくよ。それではまた後ほど」
 部外者に気を削がれたのか、男たちは会話を打ち切り、病室を出て行く。静かになった部屋で、入れ替わりに入ってきたテンマはヨハンのそばに立つと独りごちた。
「……研究、実験……? 彼らは一体……いや、まさか……」
 テンマはしばらく物思いに耽っていたが、パイプ椅子に腰を下ろすと、ヨハンにあることを告げた。
「……今日はね、君に知らせたいことがあって来たんだ。やっと君のお母さんの居場所がわかったよ。南フランスの修道院にいるそうだ。これから行ってくるよ」
 事件が終わり、自由になった今でもテンマはヨハンの母親の行方を調べていた。男たちのきな臭い話にも心が動じることはなかったのに、テンマの言葉でヨハンの鼓動は激しくなる。


 ――行ってはだめだ。記憶をすべて思い出した今、もう触れたくないんだ。
 もう何も――考えたくないんだ――。



 季節が巡り、外の景色が一面、白く覆われる頃、テンマが病室に現れた。
「ヨハン、今日はクリスマスだよ。ドイツのクリスマスは賑やかな日本のと違ってとても静かだね。街じゅう、ひっそりしてる」
 恐れていた母のことには何も触れずに、テンマはそう切り出した。一拍置いて、再び口を開く。
「実は今日、君に報告があるんだ。かなり悩んだけど、MSF……『国境なき医師団』に参加することに決めたよ。……この決断を君はなんて言うんだろうな」
『国境なき医師団』。彼らしい選択だと思った。もうヨハンに囚われる必要のないテンマがそれを選ぶのは自然にすら思えた。
 同時にヨハンの胸に小さな痛みが疼く。今後、今のような二人の時間が減り、声を聴く機会も少なくなるのだと思うと、らしくもない感傷が胸を突いた。


 ――皆が僕を置いていく。Dr.テンマも、アンナも、母さんも……。



 さらに数か月が経ったある日。パイプ椅子が軋む音を立て、ヨハンは懐かしい気配に気づいた。……妹のアンナだ。
「ヨハン……。ずっと来れなくてごめんね。大学も色々と忙しくて……。ううん、言い訳なんてできないよね。ねえ、聞こえる? あたしね、あなたの目が覚めたら、たくさん話したいことがあるの。いっぱい、いっぱい。だから……ずっと待ってるから……」
 病室に沈黙が落ちる。少しして、アンナはあるものに気づいたようだ。
「……このお花、かわいいね。テンマが持ってきてくれたんでしょ? あたしも今度は持ってこなくちゃね。……ううん、“次”はないほうがいいんだけど。今はイースターだからタマゴでも持ってくればよかったかな?」
 それからアンナは大学のことや弁護士になる夢を訥々とした様子で話してくれた。


 すべてが眩しく、ヨハンとはまるで違うアンナ。赤いバラの屋敷に連れて行かれたのは彼女のほうなのに、怪物にも侵食されずにまっすぐな心を今も持ち続けている。双子の母親もそんな妹の性質はわかっていたのだろう。だからきっと、母が手を離したかったのは、本当は……。
 ――ごめんね、アンナ。
 おそらく妹はあの記憶をまだ思い出していない。そのことがヨハンには救いでもあり、また、恐れでもあった。



 病室に夏特有の陽射しが射し込むようになった頃、久しぶりにテンマが訪ねてきた。しかし、いつもとは違い黙ったままで、彼の緊張がヨハンにも伝わってくる。テンマはパイプ椅子に腰を下ろすと小さく息を吐き、静かに話し始めた。
「あれからずっと、眠り続けているね……。聞こえるかい? 君のお母さんと話をした……」
 それはヨハンが何よりも恐れていた言葉だった。ヨハンの胸中などわかるはずもないテンマは、そのまま続けていく。
「君を愛していた……。君の本当の名前を聞いた。君には名前があった……」
 嘘だと思った。
 過去、三匹のカエルで何が起きたのか、テンマは知らない。あのことを知ったら彼は何と言うだろう。ヨハンの問いにどう答える――?


 だからヨハンはテンマにあの記憶を曝け出す。終わりの風景を共有した時と同じように、過去のビジョンをシンクロさせる。そして誰にも言えなかった本心を初めてテンマに明かしてみせた。


 母はなぜ一度ヨハンの手を離そうとしたのか。同じ姿の双子を区別できていたのだろうか。母が手を離したかったのは、本当はヨハンのほうではないのか……。


 ――いらなかったのは、どっち……?


 テンマは何も答えなかった。正しくは答えられなかったと言うべきか。彼の答えを知るのが怖くて、ヨハンがあたかもテンマの白昼夢であるかのように錯覚させたからだ。ただ、その大きく見開かれた黒い双眸が、ヨハンの目に強く焼きついて離れなかった。ヨハンはもう、夢の中に身を委ねてなどいられなかった。


 テンマの言葉が引き金となり、ヨハンはついに覚醒した。



 南フランスの緩やかな丘陵に広がるラベンダー畑やブドウ畑、糸杉の林にアーモンドの木。バスから降りると、そんなのどかな田園風景がヨハンを出迎えた。青い空と眩い太陽の下をしっかりした足取りでヨハンは歩く。少し前まで彼が昏睡状態だったと言っても、信じる者は誰もいないだろう。


 テンマが帰った後、ヨハンは目覚めた。長期間眠っていたにもかかわらず、問題なくヨハンの身体は動いた。驚いたことに、昏睡の間も筋肉や体重はそれほど落ちなかったらしい。目立った後遺症もなく、誰にも見つからずに警察病院から抜け出すことにヨハンは成功した。


 そのヨハンが訪れたのは、緑に囲まれた修道院付属の療養所。敷地に入り、広い庭園を壁伝いに進むと、その先のベンチに一人の女性が佇んでいた。後ろに束ねられたくすんだ金髪と、ヨハンとよく似た色の碧眼。顔に刻まれた皺とふくよかな姿はかつての記憶とあまりにかけ離れていたが、彼女こそ、ヨハンが何よりも恐れていた双子の母親だった。


 テンマに投げかけた言葉を胸にここまで来たヨハンだったが、何も考えずに話しかけられるほど安直な性格でもなかった。ヨハンはしばらくの間、木陰の下で彼女の様子をただ見つめる。彼女はベンチに座ったまま、風に揺れる木漏れ日や庭に咲く花など、目前に広がる景色を静かに眺めていた。
 ヨハンは母を前にして湧く感情が、懐疑や不審、殺意ではないことにそのうち気づいた。胸にあふれるのは、テンマから最後に聴いたあの言葉。


 ヨハンの気配に気づいたのか、ふと彼女がこちらに顔を向けた。一瞬瞠目すると、小さくゆっくりと唇が動く。最初は聞き間違いかと思った。だがもう一度、今度ははっきりとした声で紡がれる。
「……ヨハン」
 彼女はヨハンを見つめながら、そう呟いた。

 

 ……テンマが既に仮の名前を話していたのだろうかと、ヨハンは一瞬思う。が、すぐにそれは違うと母の次の言葉で理解する。
「……双子の坊やでしょう? すぐにわかったわ。名前……あなたにヨハンと名前を付けていたの……」
 仮の名前が本当の名前へと変わった瞬間、ヨハンは言葉を失う。何も言えずに立ち去ろうとすると、背中に声がかけられる。
「――待って。また、会いにきてくれる……?」
 ヨハンは無言で頷き、その場を後にするしかなかった。


 ――本当はもっと訊きたいことがあったのに。
 バスに揺られながら、ヨハンは思考に耽っていく。心の中で何度も反芻する、本当の名前。ヨハン。ドイツ名だ。そういえば昔、父はドイツ系チェコ人だったと一度だけ母が言っていたことを今になって思い出す。母自身もチェコとドイツのハーフだと……。


 思いを巡らせていると、ふと青が視界をよぎった。顔を上げると窓の向こうに広がるのは海、紺碧の海――。
 南フランス、地中海に面した温暖な一帯だ。ヨハンはバスを降り、小さな港町を歩いていく。高級リゾート地とも違う、喧騒から離れた穏やかな街だった。潮風に乗って、海の匂いが鼻をかすめる。漁港の隣のビーチでは地元の人々や観光客で賑わっていた。夏の陽射しに煌めくさざ波と静かな波音がヨハンを捉える。不意に押し寄せる、遠い日にアンナと交わした海の約束。


『いつか見に行けたらいいな、お兄ちゃんと一緒に』
『うん、約束だよ。二人だけで見に行こう。いつかきっと』


 海を見るのはもちろん初めてじゃない。北ドイツの街に住んでいた頃にも何度も目にしている。あの頃は海を見ても何の感慨も湧かなかった。けれど、今は。
 一面に見渡せる、空と海の美しい青。この青を、アンナにも見せたいと思った。そして、彼にも。
 ヨハンは海岸に立つと、しばらく海を眺め続けていた。



「ヨハン、今日も母ちゃんの所に行くの?」
「ああ、これからね」
「あ、そういえば最近、ヨハンの後を付け回ってる怪しい奴がいるから気をつけろよ!」
「怪しい奴?」
「うん、黒髪のガイジンだった。ずっとヨハンを見てんだよ、今度会ったらとっちめてやるっ」
「それは頼もしいな」
「へへっ、ヨハンなら俺がどうこうしなくても大丈夫だろーけどさ」
 じゃあね、と言って移民の少年はサッカーボールを足で器用に扱いながら、道の向こうへと走っていった。


 この港町を訪れてから数か月、ヨハンはこの街で暮らしている。アパートを借り、海と母の療養所を時折行き来する日々だ。とはいっても母とは大した話はしていない。姿を確認した後は話しかけずに街に戻ることもしばしばだ。テンマに問いかけたあの言葉も、結局打ち明けられずにいる。


 あの移民の少年とは、あることがきっかけで話をするようになった。彼はアルジェリア系移民の三世で、丘の先の養護施設に預けられている少年だ。歳は、ヨハンが初めてテンマと出会った頃と同じくらいだろうか。
 ある時、よそ者のヨハンに対して少年がスリの洗礼を仕掛けてきたのだが、逆にヨハンが遊び半分に少年の財布を盗み返すということがあった。後で財布は返したが、その件以来、なぜか少年はヨハンに懐き、二人は時々街で会うと挨拶を交わす仲になった。
 今はそれだけに留まらず、軽くではあるが療養所にいる母のことまでもヨハンは少年に話している。以前なら考えられないことだ。


 目覚めてから、前とはどこか違う自分が確かにいる。昔ほど、自分の痕跡を消さなければといった強迫観念のようなものがないのだ。
 心に渦巻いているのは、ふたつの問い。
「どうして殺さなかったの」と、「どうして助けたの」だ。今はそればかりがヨハンの心を占めている。ずっと母への不審に苦しんでいたのに、今となってはテンマへの思いのほうが遥かに強い。
 ――あの優しい声が聴きたい。
 だが “彼”の気配を薄々感じてはいても、身動きが取れないかのように今のヨハンにはどうすることもできなかった。



 ヨハンは今日も療養所の帰りに海岸線を歩く。ひと気の少なくなる、夕暮れ時の浜辺がヨハンには心地よかった。海は夕陽色に染まり、いつものように一日の終わりを告げていた。
 日が完全に落ちると、ヨハンは海沿いを離れ、住宅街の路地裏へと入っていく。坂道を登り、家のアパートが見えた時、背後から突然名前を呼ばれた。
「――ヨハン」
 目覚めてからずっと聴きたくてたまらなかった声。この10日間、絶えず感じていた懐かしくも愛おしいほどの気配。
 警察病院を抜け出してから数か月振りとなる、テンマとの再会だった。

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