螺旋の海 第4話

『なまえのないかいぶつ』、そして自身の過去が語られたカセットテープ。これらに触れるようになって、ヨハンは最近ある記憶を思い出すようになった。
 三匹のカエル。狭く小さなアパートでの閉ざされた暮らしが、あの頃のヨハンのすべてだった。


「怪物を許してはだめよ」
「私とお父さん、あなたたちに酷いことをした怪物をよく覚えておきなさい」


 それが母の口癖だった。普段はとてもやさしい母だった。子供の目から見ても若く美しく、歌うことが好きな母。だが時折、怪物への憎しみを吐露する彼女はどこか遠くに感じられた。
 母子三人、ひとつのベッドで添い寝をしていたあの時もそうだった。眠る妹の隣でまだ起きていたヨハンに――あの頃は仮の名前さえなかったが――母は静かに呟いた。
「怪物さえいなかったら、あなたたちももっと自由にできたのにね。でもこの場所もまだ知られていないし、もう少しの辛抱よ」
 母と兄に挟まれてすうすうと寝息を立てている妹の頭を撫でながら、母はそう口にした。
「でも二人ともとってもいい子にしてくれるから、母さんもずいぶん助かってるわ」
 母はヨハンにも腕を伸ばし、ヨハンの髪をくしゃくしゃと撫でる。ヨハンは母の温かい掌が好きだった。


 忍び寄る怪物の影に不安が付き纏うものの、至って平穏な三匹のカエルでの暮らし。母子三人の間に名前は存在しなかった。だが何の不便も感じなかったし、自分たちにとってはそれもごく自然なことだったのだ。


 閉塞的だが穏やかな日々に小さな変化が訪れたのは、それからまもなくのことだった。
 ほとんど誰も来ることのない三匹のカエルに、一人の初老の男が訪ねてきたのだ。ドイツから行方不明の女性を捜しにここまで来たのだという。
 あの時は男の正体など知る由もなかったが、今ならわかる。男の名は、ハンス−ゲオルグ・シューバルト。母の友人、マルゴット・ランガー……いや、ヘレンカ・ノヴァコバーの行方を求めて西ドイツからチェコスロバキアまで渡って来たのだった。


 これはただの偶然だろうか。いや、違う。偶然なんかじゃない。
 ミュンヘンの計画で、なぜヨハンがシューバルトを標的にしたのか、今更ながら理解する。『なまえのないかいぶつ』と同じように、忘れていたつもりでも記憶の底でただ眠っていただけなのだろう。だからヨハンは過去の自分を知るシューバルトに執着し、マルゴット・ランガーも殺害した。


 シューバルトが帰った後、意外なことに母は思いつめた顔をしていた。三匹のカエルに他人が容易に訪ねてこられたことに危機感を抱いているようだった。
 数日後、外から帰ってきた母は女児用の服一式とリボンの付いたかつらをヨハンに渡した。
「いい? できるだけこれを身につけて、双子だとわからないようにするの。怪物から逃げるにはどうしても必要なことなのよ。あなたはお兄ちゃんなんだから、母さんの言うことわかるわよね?」
 元々普段から怪物を警戒して外出する時は双子の片方だけだったが、母は用心に用心を重ねるため、やむを得ず決めたようだ。
 男の自分が女の子の格好をするなんて、恥ずかしいだとか嫌だとか、幼いながらもその時はそんなことを思っていた気がする。それでも母の説得に応じるしかなく、ヨハンは仕方なくその服を着てみることにした。
「わあ、お兄ちゃん、かがみみたい!」
 かつらも被り、妹と二人で姿見を見てみると、確かに二人はそっくりだった。すると、それまでの嫌な気持ちは吹き飛び、ヨハンは不思議と安堵した。
 ――妹と僕は何もかも同じなんだ。だからこれでいい。
 その日から、ヨハンにとってその姿が当たり前になった。



 ヨハンはアンナの姿のまま、母の肖像画を見上げる。
 ようやく辿り着いた赤いバラの屋敷。ここに来るまでかなりの時間を要したが、これでパズルのピースがすべて揃った。
 ヨハンはコートを脱ぎ捨てると、かつらを取り、衣服を女物から男物に着替えていく。母の前で、アンナからヨハンへ姿を変える。それは一種の儀式のようでもあった。
「僕だよ、母さん……。ただいま……おかえり……。母さんでも見分けがつかなかったろ? ニナ……アンナ……名前なんてどうでもいい……。あの子は僕で、僕はあの子……。君は僕で、僕は君……」
 肖像画に向かって、宣誓のようにヨハンは呟く。
「すべてがわかったよ……。僕らがどこから来てどこへ行くのか……」
 怪物に怯え、憎んでいた母。彼女は復讐を望んでいた。
 ――それなら、僕が代わりに母さんの望みを叶えてあげる。僕ができるのは、それだけだから。


 ヨハンはライターのオイルを撒き、マッチで火を放つ。怪物の存在した痕跡などあってはならない。赤いバラの屋敷も、実験の記憶も、すべては炎の中へと消えていくのだ。
 赤く燃え盛る部屋を背に、ヨハンは踵を返す。ある思いを胸に抱きながら。


 ――なぜ、僕は生まれてきたのだろう。


 あの絵本を再び目にしてからずっと、浮かんでは消える問いを心に抱き続けてきた。ヨハンのこれまでの生き方をなぞっているように見えた『なまえのないかいぶつ』。だがそれは逆で、ヨハンのほうが絵本の物語を追随していただけに過ぎなかった。ヨハンの中の怪物は所詮、外部の怪物によって創り出されたマリオネットでしかない。


 ――僕が生きる理由とは何なのだろう。


 だが、その答えがここにあった。母のシナリオ通り、復讐は果たされる。ヨハンのすべきことはただ一点のみ。


 怪物――フランツ・ボナパルタを記憶ごと抹殺する――。



 おそらく今も怪物は生きている。ボナパルタの居場所を知るには、行方を知る唯一の鍵、ペトル・チャペックに接触しなければならない。とはいえ、怪物の弟子だった老獪な男が素直に口を割ることはまずないだろう。
 手は打ってある。
 野心家のチャペックがヨハンに接触してくるであろうことを逆に利用するのだ。フランクフルトにヨハンがいるとの噂を流した上で、ヨハンの顔を知るエヴァ・ハイネマンのことも既にリークしてある。
 そうしてエヴァを介しておびき寄せ、チャペック、さらにクリストフ・ジーヴァーニッヒともっともらしくパーティーで対面する。
 手を組む表向きの名目は、ヨハンはチャペックに力を貸し、チャペックはアンナを捜し出す。猜疑心の強い眼鏡の男を警戒させずにいくには、これがいいだろう。


 その後はクリストフを使って、チャペックを心身ともに追い込んでいく。クリストフは養父であるジーヴァーニッヒ総帥の後を継ぎ、若くして組織の統率者に名を連ねることになった男だ。鋭い嗅覚と立ち回りの巧さであの凄惨な殺し合いの中を生き延びてみせた、511キンダーハイム最後の生存者でもある。
 他の統率者は、ゲーデリッツ教授に続いてヴォルフ将軍も既に亡くなっており、組織における統率者の均衡はもはや崩れている。いまやチャペックとクリストフは水面下では対立する関係だ。そこを突けばいい。
 ヨハンは薄く笑みを浮かべると、ホテルの部屋からフランクフルトの夜景を見下ろした。



「なあ、ヨハン、もう赤ん坊を殺しちゃってもいいかな? あいつ色々と勘繰ってるみたいだし、鬱陶しいんだよね」
「そうだね、構わないんじゃない? ただ僕は他の用があるから、殺すなら君のほうでやってよ」
「それは残念だな。ま、その点は問題ないけどね。君ほどじゃないけど、優秀な殺し屋を知ってるんだ」
 クリストフは足を組みながらソファに凭れ、向かい合うヨハンに軽い口調で話した。この軽薄な青年と物騒な会話を交わす時、大抵彼のアパルトマンが多かったが、最近はエヴァがその周辺を嗅ぎ回っているため、今日はホテルで顔を合わせていた。


 そのクリストフの口からようやく出た赤ん坊への殺意。クリストフの醜聞隠しのためにヨハンは三人を殺害したが、ついにチャペックの牙城を切り崩す時が来た。いよいよだ。
 赤ん坊の死の知らせを聞いたチャペックは疑心暗鬼に陥り、イトシュタインの山荘に向かうだろう。彼が精神を崩壊させるその時こそ、ボナパルタの居場所を訊き出す絶好のチャンスとなる。
 その後はヨハンが手にかけるまでもなく――アンナがチャペックを殺す。これは勘でしかないが、ペトル・チャペックに対する感情はアンナのほうがずっと強いことだけはヨハンにもわかるのだ。


「クリストフ。そのうち君のもとに僕を訪ねてDr.テンマが来ると思う。その時は伝えておいてくれるかな。例の廃屋にいると」
「ふうん……あっさり居場所を教えるなんて、何だか君らしくないな。君の命を狙ってる奴なんだろ?」
「おかしいかい? 僕はいつでも彼に会いたいと思っているよ」
 そう、いつも思っている。ヨハンの中で日増しに大きくなっていくテンマの存在。あの時重ねた唇の感触が脳裏をよぎる。
 ヨハンの言葉にクリストフは急に真顔になり、ソファに預けていた背を起こす。組んでいた足もほどくと、渇いた笑いを浮かべた。
「……信じられない。君ともあろう者が他人に意識を向けるなんて、どういう風の吹き回しだい? 僕は耳を疑ったよ」
 ヨハンはくすりと微笑む。
「そうだね、僕自身、かなり驚いているよ。……彼はね、人を平等に愛する人なんだよ」
「へえ? 本当にそんな人間が存在するなら、お目にかかりたいものだね」
「会えばわかるよ」
 クリストフは頬杖をついて揶揄するように笑う。
「そんな奴なのに、君を殺そうとしているってわけか。矛盾の塊だな」
「面白いだろ?」
「…………。悪いけど僕にはさっぱり理解できないな。そのドクターも、君もね」
 クリストフはそれでテンマの話題を打ち切り、話をまた赤ん坊へと戻す。殺害計画について一通り話し合うと、ヨハンは部屋を後にした。


 待ちわびていた時までもうすぐだ。あの廃墟と化した場所でアンナ、そしてテンマと相まみえる。そこで、三人の行くべき道が決まる――。



 アンナは泣いていた。
 白い頬を涙が伝い、違う、と彼女は呟いた。違う、と何度も、何度も。


 周囲から取り残され、そこだけ時間が止まったような廃屋で、ヨハンとアンナは対峙した。そこで、アンナの口から思いも寄らなかった真実が吐き出される。ただいま。おかえり。ヨハンは彼女の言葉を黙ってただ聞いていた。――聞いているだけしかできなかった。


 アンナの告白が終わった時、自分がどんな表情を浮かべていたのか、よく覚えていない。ただわかるのは、夢からさめたということだけ。
 ヨハンはもうこれ以上、アンナの泣き顔を見ていたくなかった。泣き崩れる彼女を残し、その場を無言で去る。朽ち果てた廃墟に響く自分の足音も、壁に反響する風の音も、今のヨハンには何も聞こえなかった。


 ミュンヘンで絵本に触れてから始めた、自分探しの旅。だが、こんな記憶を追い求めていたわけじゃない。ヨハンが赤いバラの屋敷に連れ去られ、実験の犠牲になり怪物になった。それでよかったのに。


 そして思い知らされる。二人が表裏一体であるなど、唯の幻想でしかないことを――。
 なぜ記憶は組み換えられたのか。決まっている。自分の身に起きたことが許せなかったからだ。だから妹の体験を何度も聞くことで、彼女の言葉を自らのものだと思い込ませた。
 さらに突きつめると、あるひとつの事実が導き出されていく。すなわち、アンナも知らないヨハンだけの記憶があるということだ。記憶を上書きするほどヨハンが最も恐れる、直視したくない記憶。それは――。


「――ヨハン!」
 廃屋の外で停めていた車に乗り込もうとしていた時だった。車のドアを開けたヨハンの背に声がかけられる。一声でわかる、会いたいと願ってやまない人物の声。振り返るとやや離れた位置に彼が立っていた。クリストフの伝言で一足遅く駆けつけてきたテンマだ。ヨハンは何も言えずにテンマをただ見つめる。
「……ヨハン……?」
 テンマは銃口を突きつけることも忘れてヨハンの名をもう一度口にした。その時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。ただ、明らかにいつもと違う様子のヨハンに、テンマは怪訝な表情を浮かべたまま立ちつくしている。言葉を失った二人の間を、冷たい風が通り抜けていく。
 わずかの間、互いに目を逸らせずにいたが、突然廃屋から鳴り響いた三発の銃声が二人を現実に戻した。
「……僕に構うより、今はアンナの心配をしたほうがいいですよ」
 テンマが廃屋の方向を見ている隙に、ヨハンは車に乗り込んだ。差し込んだキーを回してエンジンをかけ、車を走らせる。テンマが何か言っているようだったが、もうヨハンの耳には届かなかった。


 状況は変わった。今は会う時ではない。だが、すぐにその時機が来る。怪物のあらゆる記憶を消し去った時、すべては終わるだろう。本当の終わりの風景を見るのだ、彼と共に――。


 夢からさめたヨハンに残されたもの。怪物とDr.テンマ、ただ、それだけだった。

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